ヒーリング

ヒーリングは、誰かを変えることなのだろうか。


ヒーリングを始めた頃から、
僕は「人を変える」ということに、どこか違和感があった。


もちろん、ヒーリングを受ける人の中には、
「変わりたい」
「楽になりたい」
「今の自分から抜け出したい」
と思って来る人もいる。


それは、とても自然なことだと思う。


僕自身も、誰かが少しでも楽になればいいと思っている。
でも、
「この力で、この人を変えてあげよう」
となると、どうも違う。


なぜなのだろう。


最近、その理由が少しずつ言葉になってきた。


その人には、その人の時間がある
人には、それぞれの時間がある。
すぐに変わる人もいる。
長い時間をかけて、少しずつ変わっていく人もいる。
一度前に進んで、また戻ることもある。


そして、ときには痛みや苦しみの中にいる時間もある。
僕は、その時間まで「悪いもの」と決めたくない。
痛みをなくしてあげる。
苦しみから救い出してあげる。
そういう優しさもあると思う。
でも、
「苦しんでいるから、こちらが変えてあげなければ」
となった瞬間に、その人が今生きている時間を、こちらの都合で扱ってしまうこともあるのではないか。


痛みも、迷いも、苦しみも。
それは、その人の人生の一部だ。


だから僕は、
痛みや苦しみも、その人の権利なのではないか
と思うようになった。


サナギに手を出したくなる
蝶になる前のサナギを見ているとする。
中で何が起きているのか、外からはわからない。
苦しそうに見えるかもしれない。
なかなか出てこない。
「手伝ってあげたほうがいいんじゃないか」
そう思うかもしれない。


でも、そこで人間が手を出してしまうと、蝶が自分の力で羽化するためのプロセスを邪魔してしまう。
これはよく知られている寓話的な話で、科学的にはもう少し複雑な話なのだけれど、僕にはこのイメージがずっと残っている。


助けることと、奪ってしまうことは、とても近い。
ここが、ヒーリングについて考えるときの大切なところなのかもしれない。


「課題の分離」という考え方
アドラー心理学に「課題の分離」という考え方がある。
誰が何を感じるのか。
誰がどう生きるのか。
誰がどんな選択をするのか。


そこには、その人自身の領域がある。


もちろん、人は一人では生きていない。
支えることもできる。
話を聴くこともできる。
安心できる場所をつくることもできる。
必要なら手を差し出すこともできる。


でも、その人の人生そのものを、代わりに生きることはできない。
ヒーリングも、同じなのではないかと思う。
「あなたを変えます」ではなく、
「あなたがあなた自身の変化に向かう時間を、邪魔せずに一緒にいます」
くらいが、僕にはしっくりくる。
変えないことは、何もしないことではない
ここは、少し誤解されやすいところだと思う。


相手を変えない。
相手の痛みを奪わない。
相手の人生を決めない。
だからといって、何もしないわけではない。
むしろ逆で、
何をしないかを選ぶことにも、かなりの意志がいる。
相手が苦しんでいるときに、すぐ答えを渡さない。
変化を急がせない。
「こうしたほうがいい」と決めつけない。
その人が自分で感じ、自分で選ぶ余白を残す。
それもまた、ひとつの支え方なのだと思う。


一ミリの微調整


僕がずっと考えてきた「一ミリの微調整」も、ここにつながっている気がする。
誰かを一ミリ動かすことではない。
僕が相手の人生を一ミリ変えることでもない。
その人が、自分で一ミリ動ける。
あるいは、
今は動かない、と自分で決められる。
そのための余白をつくる。
それくらいでいいのかもしれない。


ヒーリングとは、
誰かを変える技術ではなく、
その人自身の変化を邪魔しない時間なのかもしれない。
そしてもしかすると、
人を癒すということは、
その人から何かを取り除くことではなく、
その人が自分自身でいられる時間を、少しだけ増やすこと
なのかもしれない。


一ミリの安らぎ。
一ミリの微調整。


そのくらいの距離感で、僕はこれからもヒーリングを考えていきたい。